<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>新世界七不思議</title>
      <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/</link>
      <description>新・世界の七不思議、世界中からの投票によって決められる現代版世界の七不思議</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
      <lastBuildDate>Sat, 07 Jul 2007 17:42:07 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>新世界の七不思議発表</title>
         <description><![CDATA[2007年7月7日、ネット上での公開はだいぶ遅れての発表でしたが、無事新世界七不思議が決定しました。<br /><br /><br />
チチェン・イツァのピラミッド（メキシコ） 
イエス・キリスト像（ブラジル・リオデジャネイロ） 
コロッセオ（イタリア・ローマ） 
万里の長城（中国） 
マチュ・ピチュ（ペルー） 
ペトラ（ヨルダン） 
タージ・マハル（インド） 
の7箇所。<br /><br />
最終途中経過から「イエス・キリスト像（ブラジル・リオデジャネイロ） 」「タージ・マハル（インド） 」が逆転で入ったようです。<br /><br /><br />
逆転で入ったこの2つは、随分国民的にも盛り上がっていた様子でしたし。<br /><br />
個人的な感想では 
アンコール・ワット（カンボジア） 
イースター島のモアイ（チリ）
 ストーンヘンジ（イギリス） 
この3つは歴史的な背景や、不思議さからも入らなかったのが不思議な感じ。<br /><br />
マチュ・ピチュ（ペルー） 
ペトラ（ヨルダン）
などは、入ってよかったと思います。<br /><br />
内戦で壊された歴史遺産「バーミヤン」がこの「新世界七不思議」を決める元だったと言います。
歴史的遺産が後世にも伝えられる事が望まれます。<br /><br />
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/07/post_22.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/07/post_22.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">新世界七不思議関連ニュース</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">新世界七不思議</category>
        
         <pubDate>Sat, 07 Jul 2007 17:42:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>新世界七不思議公式サイト</title>
         <description><![CDATA[新世界七不思議公式サイト<br /><br />
<a href="http://www.new7wonders.com/index.php?id=315&L=8" target="_blank">http://www.new7wonders.com/index.php?id=315&L=8</a><br /><br />
<a href="http://www.new7wonders.com/"><img src="http://img.simpleapi.net/small/http://www.new7wonders.com/" alt="" width="128" height="128" hspace="4" vspace="4" border="0"></a><br /><br /><br />
日本語ページもあります。（決定を持って日本語のページは無くなったようです）<br /><br />
日本からの投票者にこんな企画もありました。<br /><br />
日本から投票した方の中から抽選で、有名サッカープレーヤー、クリスティアノ・ロナウド選手と
新世界七不思議の創設者、バーナード・ウェバー氏のサイン入りサッカージャージが当たります。<br /><br />
新世界七不思議以外の歴史的建造物などにも、活動が広がっていくようです。<br /><br />
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/07/post_21.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/07/post_21.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">001)新世界七不思議公式サイト</category>
        
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">公式サイト</category>
        
         <pubDate>Tue, 03 Jul 2007 12:37:03 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>トンブクトゥ（マリ）</title>
         <description><![CDATA[トンブクトゥ（マリ） <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=16.774561&ln=-3.008503&z=3&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
トンブクトゥ（Tombouctou）<br /><br />
西アフリカのマリ共和国内のニジェール川沿いに位置する、砂漠の民トゥアレグ族の都市である。ティンブクトゥとも呼ばれる。<br /><br />

古代より長らく、サハラ砂漠を越えたアフリカ内陸の黒人と北アフリカからやってくるベルベル人やイスラム教徒の商人が出会う交易拠点であって、間接的にはヨーロッパから来る商人ともつながっていたことから、この都市にまつわるさまざまな伝説や物語が伝えられた。それらの多くは、到達することの困難さに由来するものであり、ティンブクトゥという言葉は、「異国」や「遠い土地」の比喩として使われるようにもなった。<br /><br />

トンブクトゥは、遊牧民トゥアレグ族の特定の季節だけの野営地が起源であるが、その後、金や象牙、奴隷、塩などの交易品が行き来するサハラ砂漠の通商路において重要な中継地として都市へ成長し、この地に興隆したガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国を通じて莫大な富が集まる重要都市となった。
<br /><br />
1500年代初頭、トンブクトゥの繁栄は頂点を迎え、その途方もない富の物語や伝説が伝えられたことを動機として、多くのヨーロッパ人がアフリカへの探検に向かうこととなった。16世紀の旅行家・地理学者であるレオ・アフリカヌスが、1512年に繁栄の絶頂にあったソンガイ帝国を訪れて次のような記述を残している。<br /><br />

「トンブト(ﾏﾏ)の富める王は、金で出来た杯や笏を数多く持ち、その重量は1,300ポンドにもなる（中略）また常時3,000人の騎手を揃え、（中略）さらに多くの医者や裁判官、司祭、学者がおり、彼らは王の財によって手厚く養われている。」 <br /><br />
しかし、ポルトガルや他のヨーロッパ諸国から来た探険家や奴隷商人が海路から西アフリカに上陸し、サハラ砂漠を経由しない通商路を開拓するに至って、トンブクトゥは衰退を始めた。さらに1591年にはモロッコ人のスルタンに仕えていたムーア人の傭兵集団に占領されたことが、それに拍車をかけた。後に彼らの子孫は現地の黒人と混合した。1800年代にはキリスト教徒の伝道者が訪れている。<br /><br />
サグラダ・ファミリアを設計したアントニオ・ガウディは、この地の泥土で建てられたモスクの様式に啓発されたと言われている<br /><br />


]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_20.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_20.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">021)トンブクトゥ（マリ）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:38:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>タージ・マハル（インド）</title>
         <description><![CDATA[タージ・マハル（インド） <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=27.174932&ln=78.042236&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
タージ・マハル<br /><br />インド北部アーグラにある総大理石造の墓廟建築。1632年着工、1653年竣工。1983年にユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録されている。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、ペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造させたといわれているインド＝イスラーム文化の代表的建築。シャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズ・マハルの死（1630年）を悼んで建設したとされる逸話は有名。<br /><br />

名前の由来はよくわかっていないが、王妃の名ムムターズ・マハルを縮めたものではないかという説が有力である。因みにムムターズ・マハルはペルシャ語で「宮殿の光」、「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉であり、第4代皇帝ジャハーンギールから授けられた称号である。彼女の本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーガムという。タージ・マハルを言葉どおりに訳せば「王冠宮殿」もしくは「宮殿の王冠」という意味になる。<br /><br />

 
タージ・マハルの門タージ・マハルを造るための建材は、インド中から1,000頭以上もの象で運ばれてきたといわれ、大理石はラジャスターン地方産であるといわれている。その他、碧玉はパンジャーブ地方から、翡翠は遠く中国から、トルコ石はチベットから、ラピス・ラズリはアフガニスタンから、サファイアはスリランカから、カーネリアン（紅玉髄）はアラビアから持ち寄られたものだという。全体で28種類もの宝石・鉱石がはめ込まれていた。<br /><br />

およそ580m×300mの敷地全体は塀で囲まれており、主に5つの要素から構成されている。赤砂岩で縁取られた南門（ダルワーザー）、正方形で幾何学的に分割されたムガル式四分庭園（バギーチャー）、西側のモスク（マスジド）、東側の迎賓施設（ミフマーン・カーナー）、そして高さ42mの4本の尖塔（ミナレット）を従える墓廟（マウソレウム）である。<br /><br />

マウソレウムは幅、奥行きとも約60m、中央のドームの高さも約60m、東西南北どちらから見ても同じデザインである。ミナレットとともに、100m角、高さ7mの基壇の上に載せられている。ペルシャ建築の影響が顕著であるが、インド的要素も散見される。ヨーロッパからも多くの宝石職人が呼び寄せられたため、一部にはバロック建築の影響も指摘されている。<br /><br />

シャー・ジャハーンは、ヤムナー川の対岸に黒大理石を基調とした自らの墓廟の建設に着手した。しかし、晩年の彼は息子のアウラングゼーブ帝によってアーグラ城に幽閉され、タージ・マハルを毎日眺めては涙を流して過ごしたと伝えられている。対岸には現在も整地された基底部が残っており、タージ・マハルの裏から渡し船で行く事ができる。計画では、川をはさんで白大理石と黒大理石の墓廟が並び、その間を大理石の橋で繋ぐ事になっていた。
<br /><br />
もっとも、その頃には隆盛を極めたムガル帝国の国庫も、度重なる建設事業により底をついていたという通説が流布されているが、後継者アウラングゼーブ帝が40年にわたって大規模な軍事侵攻を行い続け得たことからして、シャー・ジャーハン治世においてはムガール帝国の財政はそれほど窮乏してはいなかった、とみるのが妥当という説得力ある説も提示されている。死後はムムターズ・マハルの隣に葬ることを、アウラングゼーブ帝に認められたため、現在タージ・マハルには、シャー・ジャハーン帝とムムターズ・マハルの棺が並べて安置されている。<br /><br />

近年、大気汚染によるタージ・マハルの損傷が問題化している。排ガスによる直接的な汚れの他、酸性雨によって大理石が溶解する現象などが報告されている。また地下水の過度な汲み上げにより地盤が沈下し、四本の尖塔が外側に傾きつつあるとの報告もある。開発による世界遺産への悪影響の顕著な例と言えよう。
<br /><br />
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_19.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_19.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">020)タージ・マハル（インド）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:37:10 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>シドニー・オペラハウス（オーストラリア）</title>
         <description><![CDATA[シドニー・オペラハウス（オーストラリア） <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=-33.856792&ln=151.21523&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
シドニー・オペラハウス（Sydney Opera House）<br /><br />
オーストラリア・シドニーにある20世紀を代表する近代建築物であり、世界的に有名な歌劇場・コンサートホール・劇場でもある。オペラ・オーストラリア、シドニー・シアター・カンパニー、シドニー交響楽団の本拠地になっている。<br /><br />

設計者は計画決定当時無名だった建築家ヨーン・ウッツォンであるが、独創的な形状と構造設計の困難さなどにより工事は大幅に遅れ、1959年に着工したものの竣工は1973年だった。大幅な工期と予算の超過にもかかわらず、完成後はシドニーのみならずオーストラリアのシンボルとしても親しまれるようになった。シドニー港に突き出した岬に位置し、貝殻やヨットの帆を思わせるシドニーのオペラハウスの外観は、シドニー・ハーバーブリッジとともにシドニーを訪れる観光客の定番の撮影スポットでもある。<br /><br />オペラハウスの面積は1.8ヘクタール（4.5エーカー）で、総面積は4.5ヘクタール（11エーカー）。 ホールの構成はオーケストラの演奏会などが行われるコンサートホール、オペラが行われるオペラ劇場、ミュージカルや演劇などが行われるドラマシアター、プレイハウス、ピアノ演奏会など小規模な演奏会が行われるスタジオシアターがある。
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_18.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_18.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">019)シドニー・オペラハウス（オーストラリア）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:35:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ストーンヘンジ（イギリス）</title>
         <description><![CDATA[ストーンヘンジ（イギリス）<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=51.178852&ln=-1.8263921&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
ストーンヘンジ（stonehenge）<br /><br />
ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石のこと。現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。<br /><br />
円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。<br /><br />

この遺跡とその周辺は、1986年にUNESCOの世界遺産に加えられた。また、登録古代モニュメントとして法的に保護されている。ストーンヘンジ自体は英国の国家遺産として保有・管理されている。周辺はナショナルトラストが保有している。<br /><br />

馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石（トリリトン）5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石（メンヒル）が配置されている。<br /><br />

夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線状に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。<br /><br />

太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、遺跡の目的についてさまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。<br /><br />

また、当時としては高度な技術が使われていて、倒れないよう安定させるため、石と石の間には凹凸がある。<br /><br />
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_17.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_17.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">018)ストーンヘンジ（イギリス）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:33:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>自由の女神像（アメリカ・ニューヨーク）</title>
         <description><![CDATA[自由の女神像（アメリカ・ニューヨーク）<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=40.689758&ln=-74.045273&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
自由の女神像（じゆうのめがみぞう, 英:the Statue of Liberty）<br /><br />
アメリカ・ニューヨークのリバティ島（正確にはニュージャージー州に属する）にある像。正式名称はLiberty Enlightening the World（世界を照らす自由）。<br /><br />
ニューヨークにある自由の女神像はアメリカ合衆国独立100周年を記念してフランスより贈呈され、1886年に完成した。アメリカの自由、民主主義の象徴であるとともに、19世紀末以来絶えることなく世界各地からやってくる移民にとって、新天地の象徴ともなっている。<br /><br />

像の高さは46.05m（152フィート）、台座部分も含めると93m（305フィート）、重さは225t。右手には純金で形作った炎を擁するたいまつ（a torch:灯台とするためのものであったが雲に反射して船の運行妨げになるということで中止された）を掲げ、左手にはアメリカ独立宣言の日「1776年7月4日」をローマ数字で刻印した銘板(a tablet)を持っている。王冠の7突起 (spoke) は7つの大陸の7つの海に自由が広がるという意味である。足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、女神がこれを踏みつけている。これは弾圧、暴政からの解放を象徴している。性別は女性で、銅製だが、緑青の為に緑色になっている。1984年、世界遺産（文化遺産）に登録される。<br /><br />

鉄柱による骨組みを銅板で覆った構造になっている。以前は171段の螺旋階段によって冠部分の展望台に上がることができたが、アメリカ同時多発テロ事件の影響を受け一時閉鎖となり、2004年には2000万ドルをかけテロ防止措置が取られ内部の見学が再開されたが観光客が上がることのできるのは台座頂上部の展望台までである。なお2006年8月9日には、像内部の見学は今後も再開しない方針であることが明らかとなった。<br /><br />

台座部分はアメリカの移民の歴史の博物館になっており、エマ・ラザラス (Emma Lazarus) の「新大国 (The New Colossus)」という14行詩が刻まれている。また、現在は撤去されているがフランスのフリーメイソンからアメリカのフリーメイソンに贈られた旨とフリーメイソンシンボルの入ったプレートがあった。<br /><br />

1990年代に、この像は、白人か黒人かとの議論になった。双方に、それらしい理屈があり意見の一致をみることは無さそうであったが、「緑人」ということで議論は終息した。<br /><br />

なお、ニューヨークの自由の女神像は送り主のフランスに向けられているとよくいわれているが、実際はニューヨーク港のほうを向いている。
<br /><br />]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_16.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_16.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">017)自由の女神像（アメリカ・ニューヨーク）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:31:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ギザのピラミッド（エジプト）</title>
         <description><![CDATA[ギザのピラミッド（エジプト） <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=29.976257&ln=31.131029&z=2&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
三大ピラミッド（さんだいピラミッド）<br /><br />
エジプト、ギザの砂漠にある3基のピラミッドの総称。被葬者は、古代エジプトのファラオであるクフ王、カフラー王、メンカウラー王とされる。また、スフィンクスも三大ピラミッドに隣接している。<br /><br /><br />
ギザの大ピラミッド(ギザのだいピラミッド、Great Pyramid of Giza)<br /><br />
ピラミッド建築の頂点とされるクフ王のピラミッドである。エジプトのギザで建設された。なお、世界の七不思議で唯一現存する建造物である。<br /><br />
一般に、ピラミッドの出現は、王墓独自の創出により、ファラオ（王）を頂点とした中央集権国家が確立したことを示している。したがってピラミッドの建造が盛んなことは、エジプト中央集権国家としても盛期であったと言える。
<br /><br />
ギザの三大ピラミッド（ギザの大ピラミッド（クフ王のピラミッド）、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッド）が建造された時代は「エジプト古王国時代（第3-第6王朝）」であり、この時代のピラミッドは、規模・技術ともに最高水準を示すことから、当時のことは、別名で「ピラミッド時代」ともいわれる。<br /><br />

なお、ピラミッドの語源は諸説あって確定できない。語源の最も有力な説はギリシア語で三角形のパンを指すピラミス（πυραμίς pyramis ピラムス、ピューラミスとも）に由来する、という説である。古代エジプト語名は「メル（mer）」で、「昇る」という意味。ミル、ムルとも発音し、ヒエログリフでは△と表記した。<br /><br />
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_15.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_15.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">016)ギザのピラミッド（エジプト）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:29:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ペトラ（ヨルダン）</title>
         <description><![CDATA[ペトラ（ヨルダン） <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=30.322317&ln=35.451733&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div>
<br /><br /><br />
ペトラは、ヨルダンにある遺跡。<br /><br />
死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またぺトラとは、ギリシャ語で岩を意味する。1985年12月6日、ユネスコの世界遺産（文化遺産）へ登録。<br /><br />
ペトラのある地は、自然の要害であった。また西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。ナバテア人（Nabataeans）の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきた。<br /><br />

立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えた。ぺトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられる。<br /><br />

完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きであった。また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水システムを作り上げたことが分かっている。
<br /><br />]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_14.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_14.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">015)ペトラ（ヨルダン）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:27:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ノイシュヴァンシュタイン城（ドイツ）</title>
         <description><![CDATA[ノイシュヴァンシュタイン城（ドイツ）<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=47.555214,&ln=10.749264&z=3&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
ノイシュヴァンシュタイン城（Neuschwanstein）<br /><br />
ドイツ、バイエルン州のフュッセンの南方、オーストリア国境近くにバイエルン王ルートヴィヒ2世により建設された城である。現在はロマンチック街道の終点として、人気の観光スポットとなっている。その美しさから、また名前の原義（「新しい白鳥の石」）から白鳥の城とも言われている。ペラート峡谷にかかるマリエン橋から見るのが美しいと言われている。城の中を見学することができる。近くにルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごした、彼の父が所有するホーエンシュヴァンガウ城がある。ノイシュヴァンシュタインという名は、現在ホーエンシュヴァンガウ城のある地にかつてあったシュヴァンシュタイン城にちなみ1890年になってから付けられた名であり（「ノイ (Neu)」は「新しい」の意）、建設当時はノイホーエンシュヴァンガウ城と呼ばれていた。<br /><br />

ルートヴィヒ2世は中世騎士道への憧れを強く抱いた人物で、ワーグナーを庇護し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれた。膨大な額の援助を彼に施し、彼の楽劇を「私たちの作品」と呼んだが、狷介な性格のワーグナーはたとえ有力なパトロンであり国王であったとしても、作品に容喙することを許さなかった。一方、ヴァルトブルク城やヴェルサイユ宮殿を目にしたルートヴィヒ2世は、「私自身の作品」として自分の中世への憧れを具現化するロマンティックな城を造ろうと決意する。このため城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクであった。この城には、本来は必ずあるべき小聖堂や墓地がなく、玉座を後回しにしてもヴィーナスの洞窟と名付けられた人工の洞窟を造るといった具合で、徹頭徹尾王の趣味のためだけに建設された実用には不向きな城である。この城は1869年9月5日に建設が開始され、1886年には、なんとか居住できる程度にはできあがった。これ以後、ルートヴィヒ2世は首都ミュンヘンに戻らず、この城に住まうようになるが、その期間はわずかに102日間で、王はベルク城に軟禁されてしまう。<br /><br />

ルートヴィヒ2世はこの城の他にも、リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城の建設を始め、さらにはノイシュヴァンシュタインよりも高い岩山の上にさらに壮大なファルケンシュタイン城を建設する計画をたてており、その上オリエント風の宮殿も建設したいと考えていた。これらの建設費用はプロイセン王国によるドイツ統一を支持した見返りとしてビスマルクから送られた資金などを中心に、ほぼ王室費から支出され、バイエルン政府の国庫とは別会計ではあったものの、王室公債などを乱発して借金を積み重ねた。プロイセンに対し普奥戦争の損害賠償を未だ抱えていたバイエルン政府はこれに危機感を募らせ、最終的に首相ルッツらは、ルートヴィヒ2世を形ばかりの精神病鑑定にかけ、統治不能としてベルク城に軟禁した。その翌日、王は主治医とシュタルンベルク湖畔を散歩中に謎の死を遂げる。そしてルートヴィヒ2世が亡くなった1886年6月13日の時点でノイシュヴァンシュタイン城の工事は未完成部分を多く残したまま中止され、その直後から城と内部は一般公開された。<br /><br />
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_13.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_13.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">014)ノイシュヴァンシュタイン城（ドイツ）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:24:54 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>マチュ・ピチュ（ペルー）</title>
         <description><![CDATA[マチュ・ピチュ（ペルー） <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=-13.1637&ln=-72.545776&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
マチュ・ピチュ（Machu Picchu）<br /><br />現地語では「老いた峰」の意味で、よく保存されたインカの遺跡である。ペルーのウルバンバ谷 (Urubamba valley) に沿う高い山の尾根（標高約6,750ft、2,057m）に位置し、山裾からはその存在を確認できない。しばしば《インカの失われた都市》あるいは《空中の楼閣》と呼ばれる。この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13Km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。マチュ・ピチュに関する多くの謎が未だに解明されていない。<br /><br />

熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。行政上クスコと同じ地域に属している。現在ペルー国内では10ヶ所あるユネスコの世界遺産のうちでは最初にクスコと同時(1983年)に指定された。<br /><br />
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_12.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_12.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">013)マチュ・ピチュ（ペルー）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:23:16 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>クレムリンと赤の広場（ロシア・モスクワ）</title>
         <description><![CDATA[クレムリンと赤の広場（ロシア・モスクワ） 
<br /><br /><div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=55.751656&ln=37.617058&z=1&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div>
<br /><br /><br />
クレムリン<br /><br />ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。ソ連時代には、ソ連共産党の中枢が置かれたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれている。正面には赤の広場がある。<br /><br />

ロシア語では「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本語内において単にクレムリンと言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なものである。城壁の総延長2.25km。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や寺院が林立している。
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_11.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_11.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">012)クレムリンと赤の広場（ロシア・モスクワ）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:20:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>清水寺（日本・京都）</title>
         <description><![CDATA[清水寺（日本・京都） <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=34.995178&ln=135.7847&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
清水寺（きよみずでら）<br /><br />
京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基（創立者）は延鎮上人である。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。<br /><br />

清水寺は、金閣寺（鹿苑寺）、嵐山などと並ぶ、京都でも指折りの観光名所で、季節を問わず多くの参詣人で賑わっている。また、石山寺（滋賀県大津市）、長谷寺（奈良県桜井市）などと並び、日本でも有数の観音霊場として古くから知られ、平安時代以来、文学作品などにもたびたび登場する著名寺院である。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産にも登録されている。<br /><br />
 現在、世界の驚異的な物件を決める現代版新・世界七不思議の候補地の一つにノミネートされている。世界中からのインターネット投票と電話投票によって決められ、最終結果は2007年7月7日にリスボンで発表される。
<br /><br />]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_10.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_10.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">011)清水寺（日本・京都）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:18:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>アヤソフィア（トルコ・イスタンブール）</title>
         <description><![CDATA[アヤソフィア（トルコ・イスタンブール）<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=41.008041&ln=28.979818&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
アヤソフィア<br /><br />
トルコのイスタンブルにある博物館。東ローマ帝国（ビザンツ帝国・ビザンティン帝国）時代に東方正教会の大聖堂として建設され、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノポリス総主教座の所在地であった。東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。<br /><br />
アヤソフィア、あるいはハギア・ソフィアと命名された教会堂建築は、ギリシャやトルコなど、かつての東ローマ帝国（ビザンティン帝国・ビザンツ帝国）領の各地に数多く残されているが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブルのアヤソフィアを指すことが一般的である。

元来の名称であるハギア・ソフィアはギリシャ語で聖なる英知を意味し、その中世ギリシャ語の発音アヤ・ソフィアがトルコ語名アヤソフィアの由来である。日本では聖ソフィア大聖堂、聖ソフィア寺院などとも呼ばれる。<br /><br />

イエス・キリストを象徴する東に至聖所、西に正面玄関を持つ伝統的な平面構成だが、身廊中央部に巨大なドームがあり、これがアヤソフィアの最大の特徴となっている。創建当時は単純な四角形平面であったが、その後、東ローマ帝国、オスマン帝国の時代を通じて、周囲に様々な施設が建て増しされた。内壁は基本的にはオスマン帝国時代に塗られた漆喰仕上げ、大理石仕上げとなっているが、一部が剥がされ、東ローマ帝国時代のモザイク壁画をみることができるようになっている。<br /><br />

1985年、「イスタンブール歴史地域」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。<br /><br />
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_9.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_9.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010)聖ソフィア大聖堂（トルコ・イスタンブール）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:16:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>万里の長城（中国）</title>
         <description><![CDATA[万里の長城（中国） <br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=40.336777&ln=116.03263&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
万里の長城（ばんりのちょうじょう、ワンリー・チャンチョン）<br /><br />
中華人民共和国にある遺跡。ユネスコの世界遺産（文化遺産）。河北省山海関から、甘粛省まで至り、総延長は6,352kmに及ぶ。その大きさから「月から見える唯一の建造物｣とも言われていたが、2004年12月8日に宇宙空間から肉眼で観測することはできないと中国科学院により否定された。<br /><br />
一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されているが、写真のような、いわゆる｢万里の長城｣は明代に作られたものである。戦国時代から趙などは北の異民族に備えるために長城を建設していた。また北に備えるだけではなく戦国七雄の国境間にも長城が作られていた。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた長城を繋げて大長城としたのである。この時の長城は土製であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、それほど高い城壁ではなかったという。また現在の物よりかなり北に位置し、その東端は朝鮮半島に及んだ。<br /><br />

前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張したので、長城は西の玉門関まで拡張された。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、北魏は南よりの現在の線に新しく長城を築いた。
<br /><br />
しかし、後の北方民族・契丹の｢遼｣、女真の「金」、モンゴル人の「元」は、難なく長城を超えて侵入し、中国（華北）は3世紀もの間、北方民族の勢力下に置かれた。元を追い落として明が立てられると、元の再来に備えるために長城を強化し、ようやく現在の形になった。よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、実際は草原の中に建っている。中国人の北方民族に対する恐れと憎しみが伺えるが、モンゴル系民族は明代にも長城を超えて侵入を繰り返し、明末には満州（女真）が再び長城を超えて明は滅び、「清」の成立に至った。<br /><br />


現在、中華人民共和国政府は重要な歴史的文化財として保護し、世界遺産にも登録されている。世界有数の観光名所としても名高いが、地元住民が家の材料にする目的で長城のレンガを持ち去り、破壊が進んでいる。また、長城がダム工事により一部沈んだりもしている。長城周辺の甘粛省や陝西省は中華人民共和国でもっとも貧しい地域の一つで、当局は対策に頭を悩ませている。<br /><br />

2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告がされた。
]]></description>
         <link>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_8.html</link>
         <guid>http://xn--7gquaz675p0lgckzyn9a.il-o-l.com/2007/06/post_8.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">009)万里の長城（中国）</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 21 Jun 2007 10:14:40 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>
